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2012年7月13日 (金)

日本の無責任文化

大津市の中学2年生の男子生徒がいじめを苦にして自殺したとみられる事件で、警察がついに捜査に乗り出しました。

滋賀県警は11日の夜、大津市教育委員会と中学校に家宅捜索に入るとともに、校長や市教育委員会の担当者からも事情聴取を始めたそうです。

 

これまで学校はある種の聖域のような雰囲気があり、警察が入るということはタブーのようにされてきましたが、そのためにいじめの問題もきちんと事実が究明されることなく、うやむやのうちに真実が葬られてしまうことがありました。

 

今回の事件は、学校が行った2度目のアンケート結果を、亡くなった生徒の父兄に伝えないなど、学校と市教育委員会が事実を隠蔽しようとする態度があからさまだったため、警察も資料の任意提出では事実が掴めないと見て、家宅捜索に踏み切ったようです。

おそらく強制捜査などはないだろうと考えていた、学校や市教育委員会には衝撃だったでしょう。

このことが前例になって、学校側の隠蔽体質が少しでも改まるならいいことです。

 

もっとも警察もあまり偉そうなことは言えません。何しろこれまで亡くなった生徒の父兄の訴えを3度も断っていたことが分かっています。

今回操作に乗り出したのは、マスコミが騒ぎだしたからでしょう。

 

組織を守るために徹底的な原因究明はしない。

責任の所在も明らかにしないで、うやむやのうちに済ませてしまう。

このような体質は、日本の昔からの文化に根ざしたものなのでしょうか。

 

先日発表された国会事故調査委員会の報告書は、他の報告書よりも踏み込んだ内容のものでしたが、英語版の報告書が公開されると英米のメディアから批判が寄せられました。

批判は事故の責任が明確になっていないことについてです。

 

結局、誰がミスを犯したのかは特定されず、「集団主義が原因」、「根本原因は日本に染みついた習慣や文化にある」などと記したのは「責任逃れで陳腐な言い訳」だと批判されています。

イギリスのフィナンシャル・タイムズも、「文化によって行動が決まるのならば、誰も責任を取らなくてよい。問題は人がした選択であり、その文化的背景ではない」と言っています。

 

確かに、事故を起こした東電の勝俣元会長、清水元社長も何の訴追も受けていませんし、当時の首相も官房長官も何の責任も取らされていません。

今回の事故では多くの福島県民が安住の地を失い、過酷な避難生活をいまだに強いられています。警告の遅れにより被爆した人々もたくさんいます。さらには避難の際の長時間の移動などにより体力の弱いお年寄りなどが多数亡くなりました。

事故の拡大を防げなかったこと、事実の隠蔽により結果として避難が遅れ混乱を招いたこと。それらがもたらした結果について、誰が責任を負うべきかをはっきりさせるべきだというのが海外のメディアの主張でしょう。

 

東京電力は取り返しのつかない被害を与え、当時の政府はその被害を最小に食い止めることに失敗しました。

誰が何をしてどこで間違ったのか、その間違いがどのような影響を及ぼしたのか。きちんと解明することは今後、同じ過ちを二度と繰り返さないためにも必須のことです。

 

野田首相は、大飯原発の再稼働に当り、「私の責任で」と見栄を切りました。

しかし大飯の安全の見極めは不完全ですし、もし万一事故が起きた時の対策も万全ではありません。

また過酷事故が起きたら野田首相はどうやって責任を取れるというのでしょうか。もうすぐ民主党政権は消滅してしまうというのに責任など取りようがないではありませんか。

 

集団の中に責任をまぎれさせ、誰も責任を取らない日本の文化を変えていかなければなりません。

 

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